« 2009年6月 | トップページ | 2009年8月 »

2009年7月

2009年7月31日 (金)

臨床とことば

臨床とことば―心理学と哲学のあわいに探る臨床の知 Book 臨床とことば―心理学と哲学のあわいに探る臨床の知

著者:河合 隼雄,鷲田 清一
販売元:TBSブリタニカ(阪急コミュニケーションズ)
Amazon.co.jpで詳細を確認する

河合隼雄さんと鷲田清一さんの対談集です。臨床心理学もいまでは広く知られていますが、河合さんが始められた頃は「そんなものは科学ではない」とか言われたそうです。同じように鷲田さんの臨床哲学も、臨床という概念を哲学に用いるというのが果たして正しいのか、いろんな議論があったようです。しかし哲学の祖といわれたソクラテスは書物を残したり書を読んで思索したりしたわけでなく、もっぱら対話=臨床を通じて哲学を究めたのであったことから、哲学は最初から臨床だったと、自分を奮い立たせたといいます。

「幸福」について話していた事が興味深い。英語で言うとHappyですが、Happyは偶然とか,幸運にも,などの言葉がもとになっていて、昨今の人々が考えている幸福とは多少意味合いが違うといいます。ドラマや小説などで「幸福」を扱うとき、幸福というのは自分の手で作り上げるもので、幸福な状態が手に入らない人は自分の努力が足りないからだなどと言われる事があります。しかし本来の言葉の意味からすると、偶然転がり込んでくるのが幸福であって、自分で作り上げるものではないようです。そのことを認識すると、いつも「自分は不幸だ、努力が足りないからだ」とおもっている人にとっては救いになるのではないかと思います。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年7月24日 (金)

表現する仕事がしたい

表現する仕事がしたい! (岩波ジュニア新書) Book 表現する仕事がしたい! (岩波ジュニア新書)

販売元:岩波書店
Amazon.co.jpで詳細を確認する

子供向けの本ですが、面白いです。「表現する仕事」というと音楽、映画、絵画、演劇など、アーティストといわれる職業の方たちの仕事のことを指す事が多いと思いますが、この本に出てくる表現者のモノローグを読んでみると、芸術家でない私たちも同じように表現しているのだと気づかされます。この本では漫画家の安野モヨコ、歌手のおおたか静流、狂言師の茂山童司、ギタリストの村治佳織など、さまざまなアーティストのインタビューが紹介されています。

安野モヨコさんって朝日新聞の「オチビサン」で毎週楽しみにしていて、お気楽な感じの漫画家さんという印象だったのですが、表現に対する悩みはやっぱりあったそうです。子どもの頃から漫画を描くのが好きで、少しづつ上達していくのですが、描いているキャラクターのせりふやストーリーがすべて嘘っぽく、自分の好きな漫画の物まねでしかないことに気づきます。そして、漫画の世界で起こっていることが自分の考え方の基準になってしまい、現実の世界で起こっていることと区別できなくなっていることに気づき、漫画から少し離れようと決意します。

離れてみて感じたのは、自分は今まで、現実の世界を「見学」していただけで、本当には体験していなかったんだということでした。そして、実際に自分だけの感情を自分自身で体験することをはじめてから、自分の思うような漫画が描けるようになったそうです。

「感じたこと」を他の人がわかるようにするには、まず自分の「感じたこと」がどんなものなのかをきちんと知る事が必要です。そのためには自分の内面ときちんと向き合う事が大切なのだと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年7月18日 (土)

「教える技術」の鍛え方

「教える技術」の鍛え方―人も自分も成長できる Book 「教える技術」の鍛え方―人も自分も成長できる

著者:樋口 裕一
販売元:筑摩書房
Amazon.co.jpで詳細を確認する

最近教員の方のお知り合いが増え、いろいろおつきあいをさせていただくにつれ、教える側のものさしというのはどういったものかと興味をもっておりまして、そんな時この本を見つけました。小論文指導やベストセラー「頭がいい人、悪い人の話し方」で有名な樋口先生の著書です。

社会では学校に限らず、何らかの形で他人にものを教えるという機会は多いものです。樋口さんは「教えることは、一言で言えば、教える側の押し付けによって学ぶ側の独立を促すという矛盾した行為」だと言っています。教えるからには、学ぶ側が自分で考える事ができるようになるためにある程度の強制が必要で、強制と自立との兼ね合いこそが、教えるテクニックなのだと述べています。

人にものを教えようとするとき、最近でこそ教える相手を見極めて教え方を変えるというワザを使えるようになりましたが、若い頃はうまく伝わらず感情的になるなど、この本に書いてある悪い見本の典型でした。わかりやすい説明の仕方など、それこそ誰かに教わった事も無かったので、試行錯誤を繰り返すうちなんとなく身につけたものですが、なるべくならこんな本を手元に置いて勉強しておくとそんなストレスは無かったかと思います。

実際に教える立場の方も、自分を見直す意味でお読みになってはいかがでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年7月12日 (日)

確かに生きる

確かに生きる―落ちこぼれたら這い上がればいい (集英社文庫) Book 確かに生きる―落ちこぼれたら這い上がればいい (集英社文庫)

著者:野口 健
販売元:集英社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

野口健というと、清掃登山や環境学校など、文部科学省ご推薦のお兄さんというイメージしかなかったのですが、読んでみるとそのイメージは払拭されてしまいました。本人は別に富士山が好きだから掃除をしているわけでは無いといいます。日本の最高峰のゴミ拾いをするということに、国民が注目するという事が大事だという。「ゴミ拾いを国民運動に」なんて出来るわけ無い、という声が多かったそうですが、今では年間6000人を越える人々が参加しているそうです。

マネージャーの方があとがきで彼のことを「ドミナント・ロジックを打破する人」と評していました。ドミナント・ロジックは思い込みや固定概念のことだそうです。「そんなことやっても世の中は変わらないよ」と言われるほど執念を燃やして突き進んでいく。おちこぼれていた少年時代に、肩書きで生きることの出来る外交官の父親と違い、自分の名前で仕事をすることを誓った野口さんの「生きる道」は確かに続いているのだなあと感心してしまいました。

清掃登山についてあとがきで面白いことを言っている。エベレストでヨーロッパの登山家が日本隊のゴミの多さを指して「日本は経済は一流だが、マナーは三流だ」といわれたことで、日本人としての恥と関係者に対する怒りがきっかけになり清掃を始めたということになっている。でも本当の理由と言うのは本人にもなかなかつかめない。でもひとつわかるのは、自分の中に乾いた穴のようなものがあり、その穴を埋めようとする自分を抑える事が出来ないということだ。その穴を埋める行為こそが人生であるという。

掃除と言うのは実際には身の回りをきれいにすることですが、その行為を通じて自分の心の中を掃除していることに他ならないと思います。禅僧なども、掃除などの日常の仕事を通じて精神状態を保っているように感じますが、我々も無意識のうちに精神の安定を求めるように「自分の穴」を埋めたりしているのではないかと思いました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年7月 8日 (水)

単純な脳、複雑な「私」

単純な脳、複雑な「私」 Book 単純な脳、複雑な「私」

著者:池谷裕二
販売元:朝日出版社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

「海馬」でおなじみの池谷裕二さんが、出身高校で行った講演と連続講義をまとめた本です。「心の構造化」というとらえにくいテーマで行われた講義ですが、「意識と無意識を含めた脳の作用」を説明しています。

私たちがものごとを判断するときに、果たして何を根拠にしているのでしょうか。正しいと思って下した判断は、本当にそれで良かったのだろうか。「正しさ」の信念は記憶、しかもよりアクセスしやすい記憶に、影響されやすい事が知られているそうです。想像しやすいもの、思い出しやすいものを正しいと認識しやすい。言い換えれば、嫌いなものより好きなものの方、不慣れなものより慣れ親しんだもののほうが「正しい」と感じやすいということです。

一見、複雑な様相を見せる社会ですが、このような単純な脳の働きをベースに動いているかもしれないと思ったとき、「ちょっと気をつけないといけないな」というブレーキを心の中に持っていないと、危ないことになるのではないでしょうか。自分が思っているほど、自分は自分のことをわかっていないのではないか。もしかしたら自分以外の人のほうが、「わたし」のことをわかっているのではないだろうか。

私たちの心には意識できるところと意識できないところがありますが、意識できるところは少なくてほとんどが無意識だそうです。無意識のレベルで判断したり考えたりしている。「自分のことはわかっていない」ということをわかる、というのが自分のことをわかることなのだ、という事だと思うのですが、余計にわからなくなってしまいそうです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年7月 6日 (月)

じぶん この不思議な存在

じぶん・この不思議な存在 (講談社現代新書「ジュネス」) Book じぶん・この不思議な存在 (講談社現代新書「ジュネス」)

著者:鷲田 清一
販売元:講談社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

大阪大学の鷲田先生、結構面白い本書いてます。他者との関係性などを通じてはじめて「じぶん」というものが明らかになるというような趣旨の本だと思います。

面白かったのは、排泄物などをどうして汚いと感じるかという事です。なにかを飲むときに4つの方法が考えられます。

①口の中のつばを飲む。

②コップの水を飲む。

③コップの中につばをはき、水と一緒に飲む。

④水を口に含みコップに戻し、それを飲む。

③④に対してはほとんどの人がきたないと感じるでしょう。③④が①②と違うのは、水やつばが口から出たり入ったりすることで、それは身体の内部にあるものが外へ引きずり出され、内と外が混じりあってまた中へはいってしまうということです。そうすることで身体の内側と外側の境界線があいまいになり、「わたし」の存在の輪郭が侵されてしまう。それをわたしたちは恐れるのだといいます。それは排泄物や分泌物でも同様にいえるのです。

なぜ人はこのように境界に固執するのでしょうか。じぶんとじぶんでないもの、よいこととわるいことのように、「~である」とか「~でない」というしかたでしか「じぶん」というものを理解する事が出来ないからではないでしょうか。

じぶんの排泄物を嫌う理由というのはあまり考えた事が無かったのですが、思ったより深いところで脳が勝手に判断していたのだと知って愕然としてしまいました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年7月 3日 (金)

生きててもいいかしら?

生きててもいいかしら?―生と死をめぐる対話 Book 生きててもいいかしら?―生と死をめぐる対話

著者:田口 ランディ,板橋 興宗
販売元:東京書籍
Amazon.co.jpで詳細を確認する

田口ランディさんと板橋興宗さんの対談です。板橋さんは横浜の大本山総持寺貫首を経て曹洞宗の管長を務めるなど、とても偉い方のようです。管長時代はベンツで運転手付きだったそうですが、修行をしたかったのでお辞めになったとか。

宗教でも特に仏教者の話は、とらえどころが無くてわかりにくいと感じています。座禅や托鉢を通じて規則正しく自分を律することで、心の平安を求める。なるほどと思いますが、その後それがどう生かされるのだろうか。

「極楽」についてこんな風に話されています。「魚と水のたとえ」というのがあります。魚は、生まれたときからずっと水の中なので、そこが水の中だというのに気づきません。そこで、のどが渇いたといって水を探したとしたらどうでしょう。人間にとっての極楽というのはその「水」のようなものだといいます。生きていることじたいが極楽、息をすること、そして苦しんだりすることもそのものが楽しみなのだといいます。頭の中で極楽を描いているうちは、それは地獄につながる。いま生きている現実意外に事実は無いことを知ること。これが解脱だということです。

道元が中国から帰ってきて「私は修行らしい修行はしてこなかったが、自分の眼は横に、鼻は縦についているという当たり前のことがわかった」と言ったそうです。仏法を求めて修行してきたが、本当はそのようなものはなかったということなのでしょうか。

それにしても田口さんが「この狸親父からなんとか本当のことを聞きだしたい」と言ったほど暖簾に腕押しという感じで、「仏教における真理」は近づこうとすると遠ざかってしまうようです。この辺の感じは昔からなかなか拭い去れないので、宗教を仕事にしている方は出来ればこの辺を払拭して欲しいと思います。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

« 2009年6月 | トップページ | 2009年8月 »