2012年2月24日 (金)

呪いの時代 内田樹 新潮社

32672209_2

出版されてすぐに読んだのですが、なかなか上手く感想を書けませんでした。内田さんの文章は頭で分かっているだけではダメで、もっと自分の日常生活や身体的なところまで持ってこないと本当に読めたことにならないような気がします。

この時代に「呪い」がこれほどこれほど瀰漫したのは、人々が自尊感情を満たされることを過剰に求め始めたからだと内田さんは言っています。高い自己評価と低い外部評価の差を埋めるために、一般的には外部評価を高めるために人は努力する。その反対の例えとして「引きこもり」をあげています。引きこもりは自分に対して低い評価を与える外部を遮断することで、外部に評価されない立場に逃げ込むことだといいます。外部に評価されなければその人は自分自身の自尊感情について一喜一憂する必要がなくなります。なるほど。引きこもりが自尊感情と関係があったとは気がつかなかったな。これは引きこもりの解決に役立つかも。

引きこもりだけでなく、最近の若者を見ていると、自己評価の場所に晒されることを嫌う傾向が高いと思います。就職活動などの話を聞いていても、他者からの評価を正当に受け入れられず、なかなか就業できないといったことをよく聞きます。自分自身が何ものであるかを知るために社会で活動するのが、人間の本来の姿だと思いますが、これではただ生きているだけで、人間の本来の役目を果していないのではないかと思います。私自身が学生だったときには教師というのは「身の程を知ること」の大切さを教えていたと思いますが、現在の教育現場ではそのことよりも、「無限の可能性の追求」を奨励する傾向があるように感じられます。けれども学校の一番の役目は「自分には無限の可能性がある」ということと「自分の資質は有限である」という矛盾した事実を内在させることが大人になるための通り道なのだ教えることだと思います。これは学校を社会という言葉に置き換えても良いのではないでしょうか。そしてそんな通り道を通ることのできる能力を私たちは「教養」と呼ぶのではないでしょうか。

「自分は十分な尊敬を受けていない」という呪いの言葉は私たちをあっという間に不幸におとしいれるでしょう。でもそんな呪いの言葉がふりかかりそうになったときに一番助けとなるのは、一体何なのか?その答を探すためのきっかけになりそうな本でした。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年1月20日 (金)

臨床とことば 朝日文庫

32405762

鷲田清一さんと河合隼雄さんの対談集。臨床心理の巨匠と臨床哲学の実践者が「聴くこと」をベースに、様々な方面について話し合っています。これは、ホンマおもろいなあ。

河合さんの立場である臨床心理の日常は、患者を目の前にした個々のケースについて考えることはあっても、なかなか一般化したり客観化したりして考えにくいという。そんななかで哲学者と対話することで、考えることを促進させたり、日頃のルーチンワークに対して疑問を持ったりすることが出来るのではないかと言っている。

兵庫県に生野学園という、不登校の高校生のための全寮制の学校がある。その学校の初代の校長は河合さんと対談したとき「日本はものすごい金持ちになって、もう食べ物はむちゃくちゃ貧しくなった。不登校で来ている子で、味のわかる子はほとんどいない。食べ物の味のわかる子がいないんです。」と言った。そこでこの校長が一番必死になって探したのが、賄いの人だったという。その賄いの人は職員会議に出ている。教育的に大事な人だからだ。その学校の食事は「あてがいぶち」ではなく、生徒が自分で選んでいくのだそうだ。普通はお盆に載って同じメニューの食事が出てくるだけだが、あえてそうしないのだという。そして、職員が「あの子は食べてる」とか「あの子は食べてない」とかを、きちんと見ているのだ。そうやって心をこめてつくった食べ物を食べて、やがてその味がわかるようになったころには、いろんな問題が解決しているのだという。

ケアの現場などで今、「聴くこと」をベースにした臨床哲学の試みが進んでいるという。ひとりひとりが皆、声に出して自分の「やむにやまれぬ」想いを口に出来るとは限らない。五感を通じて声なき声を聴くことこそ、これからますます必要なのだと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年12月30日 (金)

もし富士山が噴火したら 鎌田浩毅著 東洋経済新報社

32692060

京都大学大学院で地球科学、それも火山学を専門に研究している鎌田浩毅教授が、一般向けにマンガやイラストを多用して、火山の災害について執筆したものです。

大阪在住のサラリーマンのコタケくんが、東京出張中に富士山の噴火にまきこまれるというストーリーのなかで、様々な困難な状況を乗り切り、なんとか大阪まで帰り着きます。

地学的なリテラシーの無いコタケくんが、例えば「電車なら大丈夫」という情報を入手した場合、どのようなルートを取るべきか?①長野新幹線と在来線を利用する。②東海道新幹線を利用する。③中央本線を利用する。の3つのルートが考えられますが、正解は①の長野新幹線と在来線の利用だそうです。

火山灰は偏西風の影響で、関東南部に広く飛来するといいます。そのため東海道新幹線や中央本線は、火山灰の影響をまともに受けてしまいます。そのように、風下がどちらの方向に向いているのかを知ることで、災害から逃れることが出来るのだといいます。

「災い」を少しでも減らすという「減災」という言葉を鎌田教授は提唱しています。実際に災害が起こってしまった場合、「防災」という考えではすでに間に合わない場合が多いということなのでしょうか。災害が起こったときに少しでも被害を減ずるためには、地学的な正しい知識が必要なのでしょう。

あとがきによると、地震や火山噴火のメカニズムを習う「地学」の履修者は、高等学校では7パーセントを下回っているそうです。地勢上、地震や火山の噴火は必ず起こることであるという認識の下、一般の人々が「地学リテラシー」を高められるような施策は今後益々必要なのだと感じました。私たちは何か困ったことがあったとき、「使うつもりの無かった知識」を総動員してその場を何とか切り抜けることができます。学校で習う事柄は一見すると「すぐに役立たないこと」と思われがちです。けれども「自分の身を自分の力で守る」ために必要なのは、すぐには役立たないかもしれない「知識」なのだと思います。

この本ではほかにも「火山灰はガラス片のかけら」であるとかの、あまり一般的には知られていないけれども知らないと健康被害につながるような知識がたくさん紹介されています。多くの人に読んでもらいたい好著です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年12月22日 (木)

アナロジー思考 細谷功 東洋経済新報社

32623437

類似したものから推し量るという意味を持つアナロジーを中心に、ビジネスの現場だけでなく、日常の様々な場面でコミュニケーション能力を発揮する手法を開陳しています。

私たちがなにげなく使っている例え話などもアナロジーのひとつで、新しい概念やものの考え方を説明するときに、相手の知っていそうな世界観を用いて、未知の世界への理解を促すことができます。

アナロジーには自分の理解のため、他人への説明、新しい発想の3つの目的があります。そのなかでも「新しい発想」を生み出すときに、最もその威力が発揮されるのではないかと思います。

アイデアが浮かんでくるときに私たちは「天から降ってきた」などといいますが、この降ってきたといわれるものは、自分自身が過去に経験したものではなく、誰かから間接的に聞いた経験などの比較的「遠い位置」に存在するものらしい。そういった遠いところから「借りて」きたもののほうが、自分の手元にある「直接的」な経験と結びついたときに大きな力を発揮するのだそうです。

そんな風に「借りてきて組み合わせる」という発想法のアナロジーは、長年同じ仕事を続けているような人たちには大きな福音となりそうです。自分自身、普段誰かと話していることは、こういったアナロジー的な発想が多いように感じます。今まで意識していませんでしたが、意識して使ってみると面白いのではないかと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年12月 2日 (金)

宮台教授の就活原論

32646758

就職本かと思ったら社会学の本でした。仕事を通じて自己実現をしようという一昔前のスローガンは、今では非常に難しいのではないかと書かれています。確かに「これをやりたい!」と思って入った会社が何年か後には違うことをしているかもしれなかったりと、一貫して自分のやりたいことを追求するのが難しいからなのでしょう。そういう点において宮台さんは会社に依存することなく、仕事以外の場所にベースをもつことで、安定した精神を保つことが必要だといいます。「志を共有する絆で結ばれた人間関係を作り、志がくじけそうになったら本気で叱咤してもらえるような」共同体をベースに持っていることで、私たちは自尊感情を保つことができるのでしょう。

宮台さんは原発事故以降、日本社会が生き延びるために必要なことを、いくつかのスローガンとして提言しています。

<任せて文句たれる社会から、引き受ける社会へ!>

<空気に縛られる社会から、知識を尊重する社会へ!>

<行政に従って褒美を貰う社会から、善いことをすると儲かる社会へ!>

<国家と市場に依存する社会から、共同体自治で自立する社会へ!>

<便利と快適を追求する社会から、幸福と尊厳を追及する社会へ!>

ワークライフバランスとは自由な時間に趣味を楽しむことではなく、未熟な人間が引き受けて考え、知識を尊重し、善いことをして儲け、共同体自治で自立し、幸福と尊厳を追及する個人になることなのだといいます。かつては社会のリーダーというのは情緒の通い合う共同体(ゲマインシャフト)から、生まれてきましたが、今日ではそういった共同体は消え去ってしまいました。けれども本音を語り合える人間関係を少しづつ築いていくことでしか、このデタラメな世の中で生きていくことは難しいのではないかと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年11月29日 (火)

ぼくはこう生きている 君はどうか

ぼくはこう生きている 君はどうか Book ぼくはこう生きている 君はどうか

著者:鶴見 俊輔,重松 清
販売元:潮出版社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

重松清さんと鶴見俊輔さんの対談集です。というより、重松さんが鶴見さんのお話を拝聴するという趣向です。「子供たちに必要なふたつの物差し」や「家庭とは、どんな意味を持つ場か」などを、鶴見さんがその話題に沿いそうな重松さんの著作を読み込んできて対話しています。

鶴見さんはわが国の「本当の教育」は1905年、日露戦争の終わりとともになくなったのだといいます。ペリー来航以降のほんの10年あまりの混乱の間に多くの指導者が生まれてきました。西郷隆盛、大久保利通、高杉晋作など、それらの人々は皆、大衆の仲から出てきたのだといいます。鹿児島城下の下加治や長州の萩などという狭い地域、すなわち「情緒の通う共同体」から生まれたのです。そういった情緒的な共同体を規範にした集団が1905年までの日本では機能していました。

けれどもそれ以降は、学校の成績中心の社会へと変容してしまいます。昨今の教育論争で主に出てくるのが第2次大戦の前か後かで教育は変わったという論だと思います。けれども鶴見さんのいうような長いスパンで見なければ、本当の意味での教育は語れないのかも知れません。教育は惰性の強いシステムだと思います。今行われている教育の正しい評価は、短く見積もっても10年くらい経たないと検証することはできないでしょう。ビジネスマインドで教育を語ることの多い昨今、こういった長いスパンで世の中を見ることが必要なのではないかと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年11月17日 (木)

現代語訳 福翁自伝

現代語訳 福翁自伝 (ちくま新書) Book 現代語訳 福翁自伝 (ちくま新書)

著者:福澤 諭吉
販売元:筑摩書房
Amazon.co.jpで詳細を確認する

慶応義塾創設者である福沢諭吉の自伝を、齋藤孝さんが現代語訳したもの。「子供のころから大酒のみ」だとか、「遊女の偽手紙を書く」など「偉人」として知られる福沢諭吉のイメージからすると驚くようなエピソードが満載です。

諭吉は豊前中津奥平藩の士族でした。父が大阪にある藩の倉屋敷に勤務していたので、生まれたのは大阪だそうです。故郷の中津、大阪、江戸の3箇所が活動の拠点になっています。後の学問的土台を形作ったのはなんといっても大阪の「適塾」時代でしょう。その適塾時代のエピソードが特に面白い。少し引用。

「私が安政三年の三月、熱病を患って幸いに全快したとき、病中はくくり枕といって、座蒲団か何かをくくって枕にしていたが、だんだん元の体に回復してきたところで、ただの枕をしてみたいと思った。その時に私は中津の倉屋敷に兄と同居していたので、兄の家来に、「ただの枕をしてみたいから持って来い」と言ったが、「枕がない。どんなに捜してもない」と言うので、ふと思いついた。これまで倉屋敷に一年ばかりいたが、いまだかつて枕をしたことがない。というのは、ほとんど昼夜の区別がない。日が暮れたからといって寝ようとも思わず、しきりに本を読んでいる。読書にくたびれ眠くなってくれば、机の上に突っ伏して眠るか、あるいは床の間の床側を枕にして眠るかで、今まで本当に布団をしいて夜具をかけて枕をして寝るなどということは、ただの一度もしたことがない。」

そこまでして彼らを勉強に向かわせたのは、一体なんなのだろうか。それは、この時代に蘭語などという難しいものを習得し、原書を読んでいるような輩は自分たちしかいないのだという、ある意味「なけなしの自負心」だったのではないだろうか。江戸期の大阪では蘭語ができたからと言って、仕官の道はほとんどなかったらしい。そんななかで彼らを突き動かしていたものは、そんななけなしの気持ちだったのだろう。

今の若者に同じことをやれというつもりはさらさらないけれども、世の中を変えていけるのはそういった若者の強い気持ちなのではないでしょうか。そういう意味で「いまどきの若者たち」もこういった本のことを知っていてもいいのではないかと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年11月 5日 (土)

世界を変えた10冊の本

世界を変えた10冊の本 Book 世界を変えた10冊の本

著者:池上 彰
販売元:文藝春秋
Amazon.co.jpで詳細を確認する

池上彰さん、この手の本は上手いですね。内容を知っておいて損はない本を10冊とりあげてあります。「アンネの日記」、「聖書」、「コーラン」、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、「資本論」、「イスラーム原理主義の〔道しるべ〕」、「沈黙の春」、「種の起源」、「雇用、利子および貨幣の一般理論」、「資本主義と自由」の10冊。

意外だったのは「アンネの日記」でした。隠れ家で暮らしていたアンネは、自分たちがユダヤ人であることを思い知らされながら過ごしていました。アンネは次のように言っています。

「神様はけっしてわたしたちユダヤ人を見捨てられたことはないのです。多くの時代を超えて、ユダヤ人は生きのびてきました。そのあいだずっと苦しんでこなくてはなりませんでしたが、同時にそれによって強くなることも覚えました。弱いものは狙われます。けれども強いものは生き残り、けっして負けることはないのです。」

この文章を読んだユダヤ人たちは、自分たちの強さとそして誇りを再認識することになりました。建国されたイスラエルは、アンネの日記の存在によって世界の祝福を受けることになります。しかしイスラエルの存在によって、中東の情勢は世界に大きな影響を与え続けています。そういう意味で1冊の本が世界に与えるインパクトはとても大きく、そのことに驚きを隠さずにはいられません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年10月21日 (金)

動きが心をつくる

動きが心をつくる──身体心理学への招待 (講談社現代新書) Book 動きが心をつくる──身体心理学への招待 (講談社現代新書)

著者:春木 豊
販売元:講談社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

心理学者でありながら、心をそっちのけにして「体の問題」に関わり続けた著者ですが、その理由はご自身の大学院生時代にさかのぼる。神経症になった著者は座禅に出会い、後に東洋的行法の実践に至った後、やがて「動き」の研究を追求することになった。

人間の脳にまつわる働きの中で、他の動物と一線を画しているのはやはり「心」の存在なのだろう。しかし漠然と「心」と言ってもいったいどういうものか、説明するのは難しい。著者は「心は身体の動きから生まれた」という点と、「心の始まりは感覚にある」ということを主張している。

脳の働きの大部分は、末梢である手足の活動の集積であり、そういう意味で身体の存在なしには語ることは出来ない。末梢での経験を、その後にさまざまな状況で再び効率よく活かすために存在するのが「脳」なのだという。

ウィリアム・ジェームスは「われわれは泣くから悲しい、殴るから怒る、震えるから恐ろしい、ということであって、悲しいから泣き、怒るから殴り、恐ろしいから震えるのではない」と述べたと言う。この説にはいまだに異論が多いというが、これは情動というのは身体的な変化、あるいは身体感覚なしには存在しえないことを協調したのだといえる。

心が先か、動きが先かというと、なかなか決めがたい点があるけれども、人間の心というのは案外身体や外的環境が変わると簡単に変化するのではないだろうか。気分がふさいだときなど、丸まった背中を伸ばしてみると結構気持ちがすっきりしたりする。心と身体の関係について考えるのにいいきっかけをもらった気がする。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年10月 7日 (金)

非属の才能

非属の才能 (光文社新書) Book 非属の才能 (光文社新書)

著者:山田 玲司
販売元:光文社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

むかし「ヤングサンデー」っていうコミック誌で、「絶望に効く薬」っていうインタビュー漫画を連載されていた山田玲司さんの本です。いろんな有名人にインタビューした中で彼が気付いたのは、「みんなと同じ」をやめることからすべてが始まるのだということでした。

学校や社会で求められているのは協調性だといわれていますが、その中身は「同調圧力」であることがほとんどです。まわりと違うことをしているとどうしても浮いてしまったり、のけものになってしまったりと、今の世の中ではちょっとでも違ったことをするとスポイルされてしまう傾向があります。けれども著者はそんな違和感こそが、幸福な人生を送る第一歩だと言っています。

同調の限界はたかだか100点満点。設問の枠の中で望まれた答えを書く能力は、必要なのかもしれません。けれどもそこから先を考えたとき、「誰かと同じ考え方」を持ってきたとしても次の一歩は踏み込めないのではないでしょうか。

協調と非属をバランスよく身体の中で融合させ、自分自身が本当に求めていることに近づいていく。一匹狼で生きていくこともそれなりに意味のあることかもしれませんが、社会という枠組みの中で「何者か」になっていくためには周りと協調していくことも必要なのだと思います。「群れずにつながる」という取り組みこそ、私たちすべてが幸福に暮らしていく新しい方策なのではないかと感じました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

«身体感覚で論語を読みなおす